2011-03-19

横浜みなとみらい日記 長女13歳の誕生日

March 19th , 2011

長女の13歳の誕生日です。
おめでとう!!

成長に感謝 ありがとう


甘い物が好きじゃないんだよね。
だからいかにもバースデーケーキ!
なんてのは嬉しくない。
地味な感じのチーズケーキで
Happy Birthday to you♪
ちっちゃな頃から、
ろうそくを消すのが楽しくて
今日も嬉しそうに ふ~!!

2011-03-17

横浜みなとみらい日記 2011年3月17日の暗雲

March 17th, 2011

この日の前日くらいが横浜で一番放射線の値が
高かった日と記憶しています。

この日は余震が続く中、上空に突如暗雲が現れました
こういうときはとっても怖いです

不安で不安で仕方ないときにそれに追い討ちを
かけるかのような不気味さです


2011-03-12

PRAY FOR JAPAN


東日本大震災の日(2011年3月11日)帰宅編・・7時間歩いた地震の夜

12, March, 2011

地震が起こった日の夜、首都圏の電車はほとんどが止まっていた。


会社(秋葉原)では、朝まで会社に残る人と歩いて自宅に帰る人に別れた。私も家族と会社の関係者の安否確認をしながら悩んだ・・・どうしようか

iPhoneに入っているナビ機能で今自分がいるお茶の水のオフィスから横浜の自宅までの経路を検索したら33km6時間半・・・そんなに歩けるのだろうか?  さらに迷った。

仕事仲間のおじさんが、鶴見まで歩いて帰ると決断。もうお定年まで数ヶ月。東京近郊の地理に明るくないのにすごい。家族に歩いて帰ろうと思っているとメールをしたら、

娘からメール

TVで動くなって言ってるよ。トイレや水がないんだよ。会社にいなよ」

Webで調べたら

「一般的に10kmまでは徒歩で帰宅可能、20km以上は控える」

とある。スーツにネクタイ、ビジネスシューズで30km以上歩けるのだろうか・・・2月までいた職場が途中の川崎にあるから、もしそこあたりで無理になったら、そこに逃げ込めばいいと思い、意を決して私も歩いて帰ることにした。自分の組織のメンバーが今晩どうするのか見届けてから総務に報告し会社を後にした。

FacebookのGPSの位置情報を使ったチェックイン機能で時間と場所を記録しながら歩いたので、それを見直しながら思い出して書いてみた。

※Facebookには、海外にいるの友人からもメッセージが来てとても励み
 になった。メッセージをくれたみんな、心配してくれてありがとう。 
 この場を借りてお礼します。
 タイムリーに返事できなくてごめんなさい。


<午後6時 お茶の水出発>
 すでに徒歩で帰宅する人たちであふれかえっている。車も渋滞で動いていない。神田、東京駅を数百メートル左に見ながら西に向かう。しばらくは千葉方面(逆方向)に歩く人たちが多く思うように進まず。

<午後7時> 日比谷
 皇居のそばを歩く。また地震が来てここに津波がきたらどうしよう・・・ビルが崩れてきたら・・・ なんて考えながら歩いた。大きな地震の後、市街地を歩くのは良くないことだった。すでに、足の一部に違和感が出始めて、最後まで歩けるか不安になる。所々にパトカー、警官が交通整理。歩いても歩いても寒くて手がかじかんでiPhoneの操作もままならない。

<午後8時> 高輪台
 少し静かな住宅街を歩く。相変わらず車はすごい渋滞。このあたりはほとんど横浜方面へ向かっている、ものすごい人の数。こんな住宅街でも車は全然動いていなかった。歩いている人の方が早い。2時間でここまでしか進んでいないことに不安を抱く。どこまで歩けるだろうか。

<午後8時45分> 戸越
 品川から京急沿いのイメージで歩いたが、いつの間にか五反田に出てしまった。五反田手前で「幸福の科学」が飲み物とトイレの提供。ありがたいがまだ大丈夫。ほとんど皆無視して歩いていた。たくさん歩いている人たちはどこか楽しそうでもあった。おそらく同じような仲間がたくさんいるからだろう。ここまで歩いてやっと山手線の外に出た・・・東京は広い。そういえば、大学の時に山手線を歩いて一週したことがある(行事で)。なんとかなりそうな気持ちと不安が50対50

 川崎まで11km、馬込まで2km このあたりの1km、2kmはとても遠くはてしなく感じた。東横線が動き出したという声も聞いたが、渋谷方面に方向転換しても混んでて乗れなかったりしたら嫌なので覚悟して歩き続ける。

<午後9時45分> 池上
 歩いている間にどうやら動き出した都営浅草線。それに乗ってきた相当な人数に西馬込で抜かれる。馬込あたりで人が減ってきて歩きやすくなって来たと思ったら、西馬込で地下鉄から降りてきた人たちで再度道がごった返していた。足に痛みが出始める。下手にストレッチしたらつりそうになったのでやめた。足の付け根が痛くて足を上げることが辛い。

 日産プリンス池上店 ここは店舗を開放して、飲み物のサービス、
 トイレ、TV(放送)を見せてくれた。 
 スタッフがみな手分けして人を誘導。

 ちょうどトイレが限界に近くて助かった。
 本当に感謝。優しさに感動。
 一生忘れないです、日産の皆さん。

<午後10時半> 東芝科学館
 多摩川を渡り、神奈川に入った。多摩川にかかる橋を渡りながら、地震が来て橋がおちたらどうしよう、海から津波が来たらどうしようなどと不安になり、急ぐ。

 東京を出るのに4時間半もかかった。思ったよりも東京が長かった。川崎駅近くの前職場に寄ろうかとも考えたが、海側に相当進路変更しなければならないので、一気に横浜まで行こうと決意。あと約10km 途方もない距離にも思えた。

<午後11時半> 鶴見
 このあたりでも、見知らぬ老夫婦が紙コップで水を配っていた。
 またしても優しさに感動。深々お礼をしてお水をいただいた。


<午前0時20分> 新子安
 そういえば晩ご飯を食べていない。コンビニに寄るもパンとかおにぎりは無く、ポテトフライとチョコレートを買って食べながら歩く。このあたりでも、「トレイご自由にご使用ください」という手書きの看板優しさに何度も遭遇した。ここまで来たらゴールは見えてきた感じ。一気にいけそうだ。

<午前1時 横浜駅>
 もう、足が限界に近い。ふくらはぎやスネもいつ痙攣して動けなくなるか恐怖。野球とバスケをやってる頃ならなんてことないのに・・・それももう15年以上前のこと

妻から電話。「近所の事務所(妻バイト先)におじさん2人が凍えているから毛布を持ってきてくれとSOSがきた。どうしよう」と。
私「かわいそうだから家に入れてあげなさい、もうすぐ着くのでピックアップしていくよ」もう、足腰(このときは腰がものすごく痛かった)がぼろぼろだったが、こんな寒い夜に毛布もなしに夜を明かすのはかわいそうだと最後の力を振り絞ってラストスパート!!これもたくさんの優しさに触れたから出せた「力」であることに間違いない。

<午前1時半 自宅>
 近所の事務所のおじさんは1人がすでに熟睡したとのことで、結局帰宅後に毛布やカイロを届けた。帰宅した安堵感で少し元気が出た。何より、帰宅途中たくさんの優しい人たちに出会ったおかげで自分も困ってる人に何かしてあげなければという気持ちになっていた。こういう思いは連鎖するものである。 Pay Forward.

結局最短ルートで歩かなかったせいか、7時間半かかった。翌日、立てないことは無かったが、そうとう足腰が痛かった。ほんと情けない・・・ でも、帰宅したら家族と一緒にいることがとても幸せに感じた。そして、不謹慎かもしれないが、どこか達成感すら感じた。35kmくらい歩けるんだとわかったことも自分に自信と勇気が備わった。

TVで見る悲惨な状況に自分がこれから何をすべきか考える。もちろん募金もするが、今すぐなにもできないのがもどかしい。自分のできることをやるしかない。それはなんなのか?しばらくはそんなことを考えながら生活することになるであろう。

被害で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

以上




2011-03-11

東日本大震災(2011年3月11日)・・・大地震そのときのこと

11, March, 2011


2011年3月11日 東北太平洋沖大地震

お茶の水駅が見えるオフィスビルの7階(最上階)が私の職場です。
丁度トイレから自分の席に戻る途中、職場がざわついていることに気づき、


「地震かな?・・・」 


そして自分の席についたあたりから急に揺れが大きくなってきた。
いつもなら、収まるだろうタイミングに終わらない揺れ。
それどころか、どんどん強くなる。


「机の下に隠れて!!」 という声に後押しされて机の下にもぐる。
(こういう時に人を動かすこの一言は一生忘れない)



揺れは続く。いつまでも続く・・・長くて強い。
映画2012年が頭をよぎり、地球滅亡かと思ったくらいの恐怖。
震源がどこなのかわからない。


「家族が無事でありますように・・・ 無事でいますように」


本当に怖かった。
こんなに強くて長い揺れを経験したのは初めて。
書類が机から落ち、ロッカーの扉が開き、壁掛けの掲示板が傾いた。


おさまった後、すぐPCでYahooニュースを見ると、
「震源 宮城県沖」 (三陸沖だったか・・・)
宮城県沖の地震なのに東京がこんなに揺れるなんて・・・


崩れた書類や倒れたものをかたづけて外を見たら、
工事現場のクレーンは動いているし建物の倒壊もないようだった。
人も普通に外を歩いていた。駅の電車は止まっている。


自宅に電話をしたが繋がらない。
携帯にも繋がらず、「大丈夫?」とだけメールを妻と長女の携帯に送った。


そうこうしているうちに、もう一回大きな地震。
2回目も長かった。余震とは思えないくらい揺れ。
午後3時前後ではあったが、もう仕事どころではなくなった。


各自家族の安否を確認しながら、部門の安否確認、各地の地震の
影響をメールで調査。 

余震が頻繁に来る。
そのたび怯えながらの仕事。


1~2時間たって妻からメールが届いた。

「自宅に次女といる。長女はまだ連絡とれず」

次女はまだ小1なので安堵・・よかった。中1の長女が無事の連絡を待つ。
次女は小学校で校庭に非難して友人のお母さんに連れて帰ってきてもらった。
長女も学校の教室にいてグランドに非難した後、帰宅したそうだ。

こういうときに家族がばらばらなのは本当に辛い。

ネットでの情報収集にも努めた。
妻方の親戚はほとんどが仙台。
一軒は、津波で大きな被害を受けた名取市。
海に近く平坦なところで娘たちと田んぼでザリガニを捕って遊んだ思い出の場所でもある。津波の情報を聞いた後は少し覚悟をしたくらい、まさにその場所だった。


翌日、その親戚のおじさんは海外出張中で、おばさんと息子2人も無事に避難をしていたと聞いて安堵。

ネットには東京でも震度5 神奈川は震度6という情報もあった。
そんな大きな地震は生まれて初めて。

職場では、皆どうやって家に帰るかを心配しだしていた。


<帰宅編へつづく>

東日本大震災(2011年3月11日) 地震の前の朝の光景

March 11, 2011

東北関東大震災の日
地震が起きたのは午後2時46分

この写真は午前6時過ぎ

なぜかこの日、
ベランダから朝日の写真を撮っていた。
いつもと変わらない穏やかな金曜日

このときはこの後で起こることなど
全く想像していない。
会社に行く直前の光景。