2020-11-07

京都・大原「宝泉院」血天井で知られるお寺

2020年11月7日(土)

血天井で知られる「宝泉院」
庭も綺麗で静かなよいお寺


秋が深まる中、葉の色づき方も
それぞれ
おもしろい色づき方をしている
葉を見つけて写真に収めた


庭の老木を眺めながらお抹茶席


茶菓子も美味しい



有名な血天井
京都の血天井は三か所ほど行った
記憶があるが、全て伏見城のもの



関ヶ原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が
豊臣の大軍と戦い伏見城 中で自刃した。
その武将達の霊をなぐさめ、
自刃した床板を天井にして祀り、供養としている。


鮮やかな緑色の苔の上に
落葉した鮮やかな赤いもみじ


水に浮かぶもみじもまた趣があって良い


宝泉院の庭園「宝楽園」は
平成17年3月に宝泉院境内南側の低地に
新しく誕生した庭。


心の内なる広大な仏、
神の世界を岩組、樹花、白砂等をもって
表わし美しく宝の如くそのまま
そこにある楽園の境を創作したもの

ここも素敵な寺院だった。


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京都・大原「勝林院」は声明の聖地で証拠の阿弥陀があるお寺

2020年11月7日(土)

三千院の奥にある寺院
魚山大原寺「勝林院」は1013年
声明による念仏修行の道場として創建


二つの本堂を中心として僧坊が建立され、
多くの僧侶が声明の研究研鑽をする拠点となった。


勝林院と来迎院を中心とした大原東部の寺院群は、
魚山大原寺と総称されるようになる。


 勝林院は火災や水害のたびに再建されてきた。
現在のお堂は1778年に再建されたもの。
幅七間・奥行六間の総欅造りで
屋根は木の板を重ねて葺いた杮葺
欄間や蛙股などに彫り込まれた立体的な彫刻は
当時の木彫技術の素晴らしさを今に伝えている。

お堂の中央に安置されている
本尊の阿弥陀如来坐像は
「大原問答」の折りに奇瑞を示したことから
「証拠の阿弥陀」と通称されています。


1168年勝林院住職の顕真が法然をまねいて、
延暦寺・金剛峯寺・東大寺などの高僧らとともに
念仏の教えについて問答を交わした。


法然は白熱する論議の中で、
念仏を唱えれば極楽浄土へ往生できると
経典を引用しながら説いた。
すると本尊が光を放ち、
法然の主張が正しいと証明した。

集まっていた多くの聴衆たちは、
皆平等に極楽往生できると知り、
大いに喜んで三日三晩絶えることなく
念仏を唱え続けたという。


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京都・大原「実光院」雨の庭に秋のさくらや柿の実

2020年11月7日(土)

大原にこんな美しい庭のお寺があったとは
秋なのに桜が咲く庭
その桜が雨に濡れて可憐で美しい


春の桜のように咲き誇るようなことはなく
少しずつひっそりと開花している


柿が実っている
葉の緑に実の橙色


桜の花の横顔
雨の雫が重たそうに花びらに
しがみついている



そんなお庭をながめることができる広間
この部屋の造りも見事である


赤や紫は見たことがあるけど
黄色い実はあまり見たことが無い


広間から見る庭の景色
山が借景となって一段と広く美しく見える


これなら雨の日も庭をゆっくり眺めることができる


素敵なお寺があったものだ
こういうところは入ってみないと分からない
入って良かった

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京都・大原(第82代)後鳥羽天皇(第84代)順徳天皇大原陵 北条義時追討令(承久の乱)

2020年11月7日(土)

大原の三千院
皇室の方が出家して
住職を務める門跡である。

古くより皇室と関わりのある
格式高い寺院とされている。

そんな三千院の近くに
縁のある皇室の墓陵があった。


<後鳥羽天皇>
第82代の天皇(在位1183~98)。
高倉天皇の第4皇子。
源平争乱の始まった年に誕生。
1183年安徳(あんとく)天皇が平氏に擁せられて
都落ちして4歳で践祚(せんそ)

当時は後白河法皇が朝廷の実権を掌握
やがて平氏が倒れて鎌倉幕府が成立したのちも
しばらくは後白河法皇による院政が続いた。

1192年法皇が没するに及んで、
後鳥羽天皇の親政となったが、
政務は初め関白の九条兼実、ついで
土御門通親(源通親)のみるところであった。

1198年、天皇は為仁親王(土御門天皇)に位を譲り、
上皇として院政を開始・・・時に19歳。
上皇は1202年に通親が没して以後
専制君主として君臨し、
院政は順徳天皇・仲恭天皇の代まで及んだ。

水無瀬や宇治などに華麗な離宮を営み、
熊野参詣も頻繁に行った。
その途次で催された歌会の懐紙が熊野懐紙である。
上皇は文武にわたって多芸多能であった。

『新古今和歌集』の撰定(せんてい)には自ら深く関与し、
琵琶、箏(そう)、笛、蹴鞠、囲碁、双六にも打ち込んだ。
また武芸を好み、北面に加えて西面の武士を置いて、
自ら盗賊追捕の第一線に加わったこともあった。

この間上皇は、思い通りにならない
鎌倉幕府への反感
しだいに募らせていった。
上皇は最勝四天王院を建立したが、
これは幕府を調伏、呪詛するためであった
と伝えられる。

 1219年鎌倉の将軍源実朝が横死すると、
幕府はかねての黙契によって、
後継将軍として上皇の皇子を要請したがこれを拒絶。

一方上皇は西国の一部地頭の廃止を要求したが
幕府は拒否。
かくして上皇は、順徳天皇や近臣たちと謀って、
武力による討幕計画を推進することになった。
これが承久の乱である。

上皇は諸国に幕府執権北条義時の追討令を発した。
しかし上皇方の予想を完全に裏切って、
東国武士で追討令に応じる者はなく、
逆に北条泰時らに率いられた幕府軍が大挙京都に
攻め上り、1か月後に京都は幕府軍に占領された。

上皇は鳥羽殿に幽閉され出家、
隠岐の島へ配流された。
配所の苅田で死去。60歳。
御陵は島根県隠岐郡の海士町陵、
京都市左京区大原来迎院町の大原陵

<順徳天皇>
後鳥羽天皇の第3皇子で第84代天皇
母は藤原範季の娘重子。
順徳天皇は父後鳥羽上皇の意向もあって
鎌倉幕府に対しては終始強気の姿勢で臨んだ。

順徳天皇の治政は、
21条からなる建暦の新制が制定される
などしたが、
平氏追討に続く鎌倉幕府との軋轢があり、
目覚しい政治は行われなかった。

1221年に懐成仁親王に譲位。
同年後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した
ときは、幕府打倒を図ったが失敗した
これが承久の乱。乱の後、
後鳥羽上皇と共に佐渡に配流された。

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京都・貴船から大原へバスに乗って

2020年11月7日(土)

貴船神社前の宿「ふじや」から貴船口まで
車で送ってもらい、そこからバスで大原へ
京都の奥座敷の横移動


大原は貴船と違って開けている
里山という感じ


まだ緑色の葉が雨に濡れて輝く


山にはまだ霧がたなびいていて
これもまた風流でよい


観光客が少ないので静かなのが一番良い
寂しい気もするが、誰一人いないわけではないので
不安にはならない、ちゃんと観光地であり
来るべき所なのだ

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京都・貴船「ふじや」の朝ごはん

2020年11月7日(土)

貴船「ふじや」で朝を迎えた
普段はあまり朝食をとらないのだけど
1泊2食付きなので素敵な朝食を
いただいた。


京都らしいだし巻き卵や湯豆腐
おなかにやさしい感じ


部屋のまどからの景色

外は今日も雨模様
山には霧がかかっている。

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