19, May, 2019
見どころ満載の退蔵院
今から600年ほど前(1404年)、
室町時代の応永年間に
当時の京洛に居を構えた
波多野出雲守重通が
高徳のきこえ高い妙心寺第3世を
つとめる無因宗因禅師への深い帰依によって、
無因宗因禅師を開山として建立されました。
これが退蔵院のはじまりです。
そのころ妙心寺は
足利義満の弾圧で
名を竜雲寺と変えられ、
関山一派の人々も祖塔を去る
悲運に見舞われました。
無因宗因禅師は高徳を惜しまれて
大徳寺へとの誘いがありましたが、
固く辞して西宮の海清寺に隠棲し、
ついに時の有力者たちに終生
近寄ることがありませんでした。
蛇だ~
退蔵院は応仁の乱で妙心寺とともに
炎上しましたが、
1597年に亀年禅師によって再建され、
今に至ります。
国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」
(模本)
山水画の始祖で画僧であった如拙が
1415年に描いた作品
足利義持の命により心血注いで描き、
現存する彼の作品の中で
最高傑作といわれています。
また、日本最古の水墨画といわれ、
国宝に指定されています。
退蔵院では、模本を展示中です。
絵に何が描かれているかというと、
「瓢箪でどうすれば鯰が捕らえられるか?」
という禅の問答です。
「公案」を表すもので相国寺の僧「如拙」
によって描かれました。
後に周文→雪舟まで筆が渡ることになり、
現存する彼の作品では
最も傑出したものです。
名前の由来は
「大巧如拙(タイコウセツナルガゴトシ)」
の語からとったもので、
「最も大巧(上手)であろうとするなら
稚拙(下手)であるのがよい。」
とされています。
「ただでさえ捕まえにくいなまずを、
こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」
この矛盾をどう解決するか、
将軍義持は当時の京都五山の禅僧31人に
賛詩を書かせました。
瓢鮎図が特に価値が高いと言われる所以は
この賛詩が寄せられているからだ
と言われます。
高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は
正に壮観です。
そのいくつかを紹介しましょう。
『瓢箪で鮎を押さえつけるとは、
なかなかうまいやり方だ。
もっとうまくやろうなら、
瓢箪に油をぬっておくがよい』(周宗)
『瓢箪でおさえた鮎でもって、
吸い物を作ろう。ご飯がなけりゃ、
砂でもすくって炊こうではないか。』(梵芳)
凡人には理解し難い回答ですが、
難問題であったと言われています。
この瓢鮎図は、退蔵院に伝えられる宝物のうちで
一番重要な物で、室町時代の漢画の
代表的名品として知られています。
さて、本図は題詞にも記されているように、
口の小さな瓢箪でぬるぬるとしたなまずを
どう捕らえるかという禅特有の意味深長な
公案を画因とする禅機画です。
ここに「鮎」とあるのは「なまず」のことで、
普通「なまず」は「鯰」という字を書きますが、
この鯰は国字(日本の文字)のため、
中国由来の「鮎」と表記されています。
このような画因による本図では、
俗塵を絶した閑寂な野辺の一角、
芦の生える川の畔に、
ぼさぼさ頭の農夫が
両手で瓢箪を押さえて立ち、
水中に泳ぐ魚を捕らえんとする光景が
画面中央に見られます。
なおその岸辺には数株の竹があり、
背景遠くには山陰を浮かび
上がらせていますが、
全体としての図様は極めて簡素です。
しかし描写は意外に精密で、
その筆致は細かいけれど、
つよい弾力をもち宋元画の技法を
よく消化しています。
そしてこの作家独特の作風を生み出し、
なかなか格調の高い作品をつくっています。
その作風上の特色は、
特にこの世のものとは思えない
人物の表現やその人物をつつむ近景の
動的な描写などがうかがわれますが、
美術史的に興味を引く一つの重要な点は、
それが禅機画でありながら、
全体としての構図が山水画的な特色を備え、
室町時代の漢画である山水画の早き例
とも見られることです。
このような本図の筆者如拙は、
詳しい経歴は明らかではありませんが、
京都・相国寺の画僧として、
室町時代初頭に活躍した人物だと
言われています。
本図は、彼の遺作としてもっとも信ずべき
確証をもちその歴史的価値は
極めて大きいものでしょう。
室町時代の画聖・狩野元信の作品で、
絵画的な優美豊艶の趣を失わず、
独特の風格を備えている枯山水庭園です。
庭の背景には、
やぶ椿、松、槇、もっこく、かなめもち 等、
常緑樹を主に植え、一年中変わらない美しさ
「不変の美」を求めた物と考えられます。
狩野元信が画家としてもっと も円熟した
70歳近くの頃の築庭と推測されています。
自分の描いた絵をもう一度立体的に
表現しなおしたもので、
彼の最後の作品が造園であったことで
珍しい 作品の一つと数えられています。
昭和6年(1931年)には、
国の名勝史跡庭園に指定されました。