21, February, 2021
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長である、森喜朗会長が女性蔑視発言をしたことで世界中から非難をされました。力のある政治家なのでしょうが、また失言しちゃったな、と思いつつ思い出したのが、与謝野晶子のことばです。なかなか出所が思い出せず、探して探してやっと見つけました。それは・・・
今からちょうど100年前
1921年2月に書かれたもの
私なりの解釈は、与謝野晶子曰く
「女らしさっていうけど、優雅でつつましくとか、優しくって人間らしさと意味は同じでしょ、女らしくないことって、冷酷とか生意気、無作法、粗野とか、男だってダメな事じゃない、人間としてダメなことを女らしくないなどと言うのは、男の傲慢である」
<以下「女らしさ」より途中部分抜粋(原文)>
論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていることをいうのである。その反対に「女らしくない」ということは、無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味するのであるといわれるでしょう。しかし愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。人間性は男女の性別に由って差異を生ずる性質のものでないのですから、もしこれを失う者があれば「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難して宜しい。しかるに従来は男子に対してそれが寛仮かんかされ、女子に対してのみ「女らしくない」という言葉を以て峻厳に批難されて来たのは偏頗へんぱ極まることだと思います。
我国の男子の中には、まだこの点を反省しない人たちがあって、いわゆる豪傑風を気取った前代の男子の悪習を保存し、自分自身は粗野な言動を慎まないのみならず、その醜さをかえって得意としながら、唯だ女子にばかり、愛と、優雅と、つつましやかさとを要求します。しかし無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等の欠点は、男子においても許しがたい欠点であることを思わねばなりません。これを女にばかり責めるのは、性的玩弄物がんろうぶつとして、炊事器械として、都合の好いように、女子を柔順無気力な位地に退化せしめて置く男子の我儘わがままからであるといわれても仕方がないでしょう。
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この手記を書いた時代は、まだ市町村会議員にすら女性がなることは認められておらず、女性解放運動が行われていました。与謝野晶子は上記文章の前段で、こうも言っています。
同じ教育も受けていないのになぜ、女性が男と同じ職業につくのは無理だと結論付けられるのか、またヨーロッパでは女子が男子と同じ格好をして活発に体育をしている。しかし女らしさを失ったとは言われていない。すなわち「女らしさ」の認識は日本だけのものである。日本の歴史をみても、女帝、女性政治家、女兵、幕末勤皇婦人などがあったが非難されていない。紫式部を女らしくないと評価する者もいない。一方で男子が裁縫師、料理人、洗濯業者になっても男らしくないとは言われないし、女が書く日記を書いた紀貫之も男らしくないと非難されるどころか尊敬を集めている。
どういうことなんだ!
と説得力ある論調で書かれています。この時代にこういうことを堂々と論じるのはとても勇気のいることだったろうなと推察します。
12人の子供を産み育て、稼ぎの少ない夫の分まで稼ぎ、海外にいったりと、純情・純粋で天才な与謝野晶子なイメージ。世の女性はそんな天才ばかりではないので、女性からは当時どう思われていたのかなとも思います。嫁(とつ)いで子供を産み育てながら家事で稼(かせ)ぐ夫をサポートするのが当たり前の時代なのでそれが女の幸せだと思う女性も多かったのではないでしょうか。100年たった現代ではど真ん中のストライクかな。国会でだれか読み上げればいいのに。