2020-02-02

京都・豊国神社と方広寺 豊臣家ゆかりの神社仏閣、滅亡のきっかけの銘文

2, February, 2020

<豊国神社>
1598年8月豊臣秀吉公は伏見城において生涯を終えた。御遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、翌年中腹に秀吉公を祀る豊国社が創建された。

しかし、1615年大坂夏の陣において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀。以後江戸時代を通じ草叢に埋もれてしまっていたが、1868年、明治天皇の御沙汰により再興が決定。同6年、別格官弊社に列し、同13年には方広寺大仏殿跡地に社殿が造営され名実共に再興された。

境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が聳え、秀吉公の遺品・豊国社の社宝を収蔵する宝物館等があり、現在では出世開運の神様として全国より崇敬を集めている。



<方広寺>

現在の方広寺の境内には、創建当時の梵鐘が残っています(鐘楼は明治時代に再建されたものです)。高さ4.2m、外径2.8m、厚さ0.27m、重さ82.7tもの巨大なこの鐘は、

東大寺

知恩院

の鐘とともに日本三大名鐘といわれています。

この梵鐘に彫られた銘文

「君臣豊楽」「国家安康」

が徳川家を冒涜するものとされ豊臣家滅亡のきっかけとなったといわれている銘文です。「君臣豊楽」「国家安康」は豊臣が君主として家康の名を分断したと徳川家康の怒りをかったそうですが、「国家安康」は国の安泰を願う一般的な表現であることから、現在では徳川家がこの銘文を曲解して豊臣家に因縁を付けたものと解釈されています。



ところで、この梵鐘は
豊臣家が滅亡してから
明治時代に新たな鐘楼が再建されるまで、
現在の京都国立博物館付近に
雨ざらしとなっていたそうです。