「天竺震旦にも、日本我が朝にも、並びなき名将勇士といえども、運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。東国の者どもに弱気見すな。いつの為にか命をば惜しむべき。いくさようせよ、者ども」
恥ずかしい行いや卑怯な振舞いは自分自身を辱めるものである、鎌倉武士の精神が、その後の日本人の考え方・生き方の大きな礎となり今日にいたっている。
日本史が、中国や朝鮮と異なる文化風習の歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする”百姓”の政権が誕生してからである。私どもは、これを誇りにしたい。彼らは、京の公家や寺社とはちがい、土着の倫理を持っていた。
「名こそ惜しけれ」
司馬遼太郎氏は、その著書の中で「名こそ惜しけれ」という考え方が日本人の倫理規範の元になっていると述べている。「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできないという意味」であり、武士道として日本人ルーツとなり背景となる心の持ち方である。
はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている。(『この国のかたち』)
——自分の名を汚すような、恥ずかしいことはするな。
この単純明快な思想は、平安中期に、のちに”武士”と呼ばれる開墾農民たちの間に生まれた。「名」は自分自身の存在そのものであり、生きざまを映すもの。だからこそ、その名を汚してはならじ、その名において誇り高く生きるべし、と考えたのである。
人間の芸術品
鎌倉武士の精神はその後、戦国時代、江戸時代と受け継がれてきた。例えば、薩摩島津家は特色ある家風を持っていた。名君を多く産み、幕末に西郷隆盛や大久保利通を輩出した薩摩藩。
島津家は、とくに鎌倉の風を慕った。とくに戦国から江戸期にかけ、意識して家士を教育し、鎌倉風に仕立てた。たとえば、島津の家中にあっては捕吏は無用といわれた。罪をえた者が、捕吏が向かうより早く、縄目の恥を避けて自刃した、というのである。(『この国のかたち』)
罪人が明るみなってそれを晒されるくらいなら、死して責任をとるか無実を訴えたということだろうか。
そして明治時代は極端な官僚主義国家でありながら、汚職が極めて少なかったという。700年の武士というものがつくり上げた清々しい倫理観は、明治への最大の遺産となり、いまも一部の気持ちの良い日本人たちに引き継がれている。
人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この2つが、幕末人をつくりだしている。幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて、人間の芸術品とまでいえるように思える。(『峠』あとがき)
これからの日本人の倫理観
司馬氏は以下のように言う。
今後の日本は世界に対して、いろいろなアクションを起こしたり、リアクションを受けたりすることになる。そのとき、「名こそ惜しけれ」とさえ思えばよい。ヨーロッパで成立したキリスト教的な倫理体系に、このひとことで対抗できる。(『司馬遼太郎全講演』)
海外で仕事をする時、日本人が誇れるものの一つに倫理感がある。
まじめ、誠実、うそをつかない、相手の名誉やメンツにも配慮できる。
思い出すのは日露戦争で旅順要塞を攻撃した後「水師営の会見」で乃木希典の言動である。海外のメディアの前にロシアのステッセル将軍を晒すことを拒み、友人となった後の一緒の写真のみ許したという話。そしてその振る舞いは世界中で称賛を受ける。
こういった素晴らしい倫理観を引き継ぐ我々日本人は、これからもこの精神を大事に受け継いでいきたいと思う。