8, November, 2020
寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といい、推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられます。かなり古く由緒あるお寺です。
当初の本尊は、聖徳太子御作と伝えられる六万体地蔵尊であったが現存しません。鎌倉時代に制作された旧本尊(重要文化財)は、平成12(2000)年5月9日未明に発生した火災により焼損したため、文化庁の指導を受けて財団法人美術院によって修復されて、境内奥の収蔵庫に安置されることとなり、現在は美術院によって模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されている。
この小さな本堂でお話を聞くことができます。本堂には、国宝修理所の故小野寺久幸仏師によって、形・大きさともに元通りに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置され、落慶式と同時に、魂入れの儀式として入仏式が厳修されました。鎌倉時代の制作当時そのままの美しい彩色です。
大原女のモデル・阿波内侍
代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたと伝えられる寂光院ですが、史料がなく詳細が分からないため、阿波内侍(あわのないし、藤原信西の息女)を第2代と位置づけています。崇徳天皇の寵愛をうけた女官であったが、出家のあと永万元年(1165)に入寺し、証道比丘尼と称した。出家以前は宮中にあった建礼門院に仕え、この草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされている。
寂しげなお地蔵様
建礼門院徳子
第3代の建礼門院(平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母)は、文治元年(1185)年9月に入寺し真如覚比丘尼と称した。源平の合戦に敗れた後、寂光院に侍女たちとともに閑居し壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、終生を過ごしました。
庭のもみじが色づきとても綺麗でした。
特に晴れた朝の紅葉は光に照らされ、青空に赤や黄色がとても映えます。