2020-10-18

京都・伏見桃山の乃木神社で幕末から明治に想いを馳せる ・・Go to トラベル

18, October, 2020

司馬遼太郎さんの書いた小説

「坂の上の雲」が大好きである。

乃木希典陸軍大将は中国旅順攻略が
なかなかできずに酷評されています。
一方でその人柄は尊敬する人も多く
最後は神として祀られる存在となりました。


乃木希典は明治天皇が崩御され
大喪の礼の日の夜に妻の静子さんと共に自刃しています。
大正元年9月13日享年64歳でした。

この殉死についても賛否両論ありますが、
私はその時代や乃木希典の生きてきた
背景などを考えると、本人の意志を尊重したいと思います。
そんな彼の人生を振り返ってみたいと思います

乃木神社には乃木希典を祀っていることもあり、
乃木希典の生涯を知ることができます。

境内には宝物館がありました。
また、下関にいたころの家を復元されていました


幼少期

乃木希典は1849年に江戸の長府藩上屋敷(現六本木)に生まれ10歳まで江戸で育ちました。幼名は無人(なきと)といい、2人の兄のように夭折しないよう壮健に成長して欲しいという願いが込められています。虚弱体質で臆病であったため、友人に泣かされることも多く「泣き人」(なきと)とあだ名されました。父は厳しく、「寒い」と不平を言ったら井戸まで連れていかれ「暖かくしてやる」と冷水を浴びせた話は有名です。またこの時期母の過失により左目を失明しています。

1858年長府(下関市)に転居して1863年に元服して源三と名を改めました。


青年期

1864年16歳の源三は学問の道を目指して出奔し萩の玉木文之進に身を寄せます。1865年 長府藩報国隊を組織して第二次長州征討に従軍しました。この際、奇兵隊山縣有朋の指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げました。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、1866年、長府藩の命令に従い明倫館文学寮に入学(復学)しています。

陸軍少佐任官

1868年、20歳の源三は潘命により伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学びました。翌1869年京都河東御親兵練武掛となり、次いで、1870年豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官として馬廻格100石を給されました。

1872年、22歳の時に黒田清隆の推挙をうけて、大日本帝国陸軍の少佐に大抜擢され、名も希典と改めました

1875年熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ小倉に赴任。

1876年、旧秋月藩士らによる秋月の乱が起き、直後に萩の乱が起こりました。この乱で弟は反乱軍に与して戦死し、学問の師である玉木文之進は自らの門弟の多くが反乱軍に参加したことに対する責任をとるため自刃しました。

西南戦争

1877年(明治10年)西郷隆盛が挙兵します。乃木希典は陸軍卿の山縣有朋から警備の内示を受けました。

乃木は小倉の歩兵第十四連隊を率い熊本市付近で薩軍との戦闘に入りました。しかし熊本城に入城するのは困難と判断して後退しました。その際に連隊旗を奪われてしまいます。この後連隊はさらに後退しますが、薩軍を引き付けた事で政府軍の進出を援護する事となり、先方部隊が戦場に到達、歩兵第十四連隊単独での戦闘は終了となりました。

その後第二旅団の指揮下に入り、田原坂の攻防を経て薩軍の攻勢は高瀬の戦いを機に次第に勢いを失い政府軍有利に傾きます。乃木は戦闘で負傷して入院と脱走を繰り返し「脱走将校」とも呼ばれました。

4月乃木は薩軍の包囲から解放された熊本城に入場し中佐に進級します。乃木は連隊旗喪失を受けて自責の念を抱いて幾度も自殺を図ろうとし、熊本鎮台参謀副長だった児玉源太郎少佐が乃木の軍刀を奪い取って諫めたという

中佐に進級した後乃木は熊本鎮台幕僚参謀となって第一線指揮から離れました。以後は補給などの後方業務を担当します。

少将時代と日清戦争

1878年(明治11年)乃木は東京の歩兵第一連隊長に抜擢され、同年旧薩摩藩藩医の娘の静子(当時お七)と結婚します。秋月の乱に始まる一連の不平士族の鎮圧で実弟など親族を失った乃木は東京に移ってから放蕩が激しくなり、静子との祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言にも遅刻したといいます。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続きました。その放蕩ぶりは「乃木の豪遊」として周囲に知れ渡ったといいます。

1879年 長男 勝典誕生
1880年大佐に昇進
1881年 次男 保典誕生
1883年 東京鎮台参謀長に任じられる
1885年 最年少(37歳)で少将に昇進、歩兵第11旅団長に任じられた
1887年ドイツに留学
留学を終え帰国した乃木は、復命書を陸軍大臣の大山巌に提出して、その記述を体現するかのように振る舞いました。料理茶屋・料亭には行かず生活を質素に徹し、いかなる時も軍服を着用するようになったといいます。

1892年(明治25年)東京の歩兵第1旅団長
1894年(明治27年)日清戦争が始まり大山巌が率いる第2軍の下で出征

乃木率いる歩兵第1旅団は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、旅順要塞をわずか1日で陥落させる活躍でした。
1895年(明治28年)蓋平・太平山・営口および田庄台において戦い、特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団(司令官は桂太郎)を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けました。

日清戦争終結間際に乃木は中将に昇進。第2師団長となり、男爵として華族に列せらることにもなります。

台湾総督

1896年 乃木は台湾総督に任じられます。
教育勅語の漢文訳を作成して台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込むよう努力しました。一方で日本人に対しては、現地人の陵虐および商取引の不正などを戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めました。

1897年 台湾総督を辞任します。
台湾の実業家が「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって、支配側の綱紀粛正を行ったことは、台湾人にとってよいことであった」と評価しています。

日露戦争

いよいよ日露戦争が開戦します。1904年(明治37年)動員令が下り、56歳の乃木は留守近衛師団長として復職しました。その後第3軍司令官に任命され広島県の宇品港から戦地に向かいました。乃木が率いる第3軍の目的は旅順要塞の攻略でした。

一方乃木が日本を発つ直前に長男の勝典が戦死しました。とき乃木は児玉源太郎らと共に大将に昇進しています。

第3軍は進軍を開始し3回の総攻撃と白襷隊といわれる決死隊による突撃を敢行しました。乃木はこの戦いで正攻法でロシアの永久要塞を攻略しました。乃木の指揮について「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と後年述べた人がいたそうです。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となりました。

第3軍は満州軍司令部や大本営から十分な補給が行われることがありませんでした。当初旅順要塞が早期陥落すると楽観視していた陸軍内部から乃木に対する非難が高まり、一時は乃木を第3軍司令官から更迭する案も浮上しました。しかし、明治天皇が御前会議において乃木更迭に否定的な見解を示したことから、乃木の続投が決まったといわれています。

大本営は乃木の第3軍に満州軍司令部と異なる指示を出し混乱させました。特に203高地を攻略の主攻にするかについては、第3軍の他にも、軍が所属する満州軍の大山巌総司令や、児玉源太郎参謀長も反対していましてかわ、大本営は海軍側に催促されたこともあり、満州軍の指導と反する指示を越権して第3軍にし、乃木たちを混乱させました。

1904年11月30日、第3回総攻撃に参加していた次男・保典が戦死しました。乃木は出征前に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と夫人の静に言葉を残していたそうです。

1905年(明治38年)要塞正面が突破され抵抗は不可能になったステッセル司令官は降伏書を送付しました。これを受けて戦闘が停止され旅順要塞は陥落しました。


旅順要塞を陥落1905年乃木はステッセル司令官と水師営で会見しました。明治天皇は山縣有朋を通じ「ステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう」乃木に命じた。

これを受けて、乃木は極めて紳士的に接しました。乃木はステッセルに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けました。また乃木は会見写真は一枚しか撮影させずステッセルらロシア軍人の武人としての名誉を重んじました。

乃木の振る舞いは、旅順要塞を攻略した武功と併せて世界的に報道され賞賛されました。
その後奉天会戦でも激戦の末、クロパトキン総司令官率いるロシア軍を退却させ日本軍の勝利へと導きました。

ロシア軍が「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」と豪語した旅順要塞を半年あまりで攻略したことや、二人の子息を戦争で亡くしたことから、日本では乃木を歓迎するムードが高まっていたが、乃木は帰国する直前、多数の将兵を戦死させた自責の念から「戦死して骨となって帰国したい」と述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断りました。

東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読しました。

<復命書の内容>
第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威(みいつ)、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼むとなっており、自らの作戦指揮については、旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかったことを挙げて、甚だ遺憾であるとした。

乃木は、復命書を読み上げるうち、涙声となった。さらに乃木は、明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上しました。しかし明治天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされます。

乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価されました。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセルの処遇については、世界的に評価されました。

学習院長

1907年(明治40年)乃木は学習院長を兼任することになりましたが、この人事には明治天皇が大きく関与しました。山縣有朋は、時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、乃木を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏しました。しかし、天皇はこの人事案に裁可を与えず、皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託すべく、乃木を学習院長に指名しました。学習院長は文官職であり、陸軍武官が文官職に就く場合には、陸軍将校分限令により予備役に編入される規定でした。しかし、明治天皇の勅命により、乃木は予備役に編入されませんでした。

また天皇は、乃木に対し、自身の子供を亡くした分、生徒らを自分の子供だと思って育てるようにと述べて院長への就任を命じたといわれます。

昭和天皇の養育

1908年(明治41年)迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力しました。

当時、裕仁親王は、赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたが、乃木は徒歩で通学するようにと指導しました。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになったといいます。
後に中曽根康弘が運輸大臣であった時に昭和天皇への内奏で、司馬遼太郎の小説『殉死』に書かれている逸話は本当かと尋ねたところ、おおむねその通りであると答えられたといいます。

1912年(明治45年)7月に明治天皇が崩御されてから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は、乃木を「院長閣下」と呼んでいます。これは、明治天皇の遺言によるものだそうです。昭和天皇は後に、自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木の名を挙げるほどに親しみました。

西南戦争で連隊旗を奪われたこと、日露戦争までの間で自分の指揮下で多くの死傷者を出したことについて乃木希典自身が強く責任を感じていること、2人の息子を日露戦争で亡くしたことは生き続ける方が辛かったのでしょう。明治天皇の言葉に従い、最期はようやく自身の思いが遂げられたようです。