2011-03-12

東日本大震災の日(2011年3月11日)帰宅編・・7時間歩いた地震の夜

12, March, 2011

地震が起こった日の夜、首都圏の電車はほとんどが止まっていた。


会社(秋葉原)では、朝まで会社に残る人と歩いて自宅に帰る人に別れた。私も家族と会社の関係者の安否確認をしながら悩んだ・・・どうしようか

iPhoneに入っているナビ機能で今自分がいるお茶の水のオフィスから横浜の自宅までの経路を検索したら33km6時間半・・・そんなに歩けるのだろうか?  さらに迷った。

仕事仲間のおじさんが、鶴見まで歩いて帰ると決断。もうお定年まで数ヶ月。東京近郊の地理に明るくないのにすごい。家族に歩いて帰ろうと思っているとメールをしたら、

娘からメール

TVで動くなって言ってるよ。トイレや水がないんだよ。会社にいなよ」

Webで調べたら

「一般的に10kmまでは徒歩で帰宅可能、20km以上は控える」

とある。スーツにネクタイ、ビジネスシューズで30km以上歩けるのだろうか・・・2月までいた職場が途中の川崎にあるから、もしそこあたりで無理になったら、そこに逃げ込めばいいと思い、意を決して私も歩いて帰ることにした。自分の組織のメンバーが今晩どうするのか見届けてから総務に報告し会社を後にした。

FacebookのGPSの位置情報を使ったチェックイン機能で時間と場所を記録しながら歩いたので、それを見直しながら思い出して書いてみた。

※Facebookには、海外にいるの友人からもメッセージが来てとても励み
 になった。メッセージをくれたみんな、心配してくれてありがとう。 
 この場を借りてお礼します。
 タイムリーに返事できなくてごめんなさい。


<午後6時 お茶の水出発>
 すでに徒歩で帰宅する人たちであふれかえっている。車も渋滞で動いていない。神田、東京駅を数百メートル左に見ながら西に向かう。しばらくは千葉方面(逆方向)に歩く人たちが多く思うように進まず。

<午後7時> 日比谷
 皇居のそばを歩く。また地震が来てここに津波がきたらどうしよう・・・ビルが崩れてきたら・・・ なんて考えながら歩いた。大きな地震の後、市街地を歩くのは良くないことだった。すでに、足の一部に違和感が出始めて、最後まで歩けるか不安になる。所々にパトカー、警官が交通整理。歩いても歩いても寒くて手がかじかんでiPhoneの操作もままならない。

<午後8時> 高輪台
 少し静かな住宅街を歩く。相変わらず車はすごい渋滞。このあたりはほとんど横浜方面へ向かっている、ものすごい人の数。こんな住宅街でも車は全然動いていなかった。歩いている人の方が早い。2時間でここまでしか進んでいないことに不安を抱く。どこまで歩けるだろうか。

<午後8時45分> 戸越
 品川から京急沿いのイメージで歩いたが、いつの間にか五反田に出てしまった。五反田手前で「幸福の科学」が飲み物とトイレの提供。ありがたいがまだ大丈夫。ほとんど皆無視して歩いていた。たくさん歩いている人たちはどこか楽しそうでもあった。おそらく同じような仲間がたくさんいるからだろう。ここまで歩いてやっと山手線の外に出た・・・東京は広い。そういえば、大学の時に山手線を歩いて一週したことがある(行事で)。なんとかなりそうな気持ちと不安が50対50

 川崎まで11km、馬込まで2km このあたりの1km、2kmはとても遠くはてしなく感じた。東横線が動き出したという声も聞いたが、渋谷方面に方向転換しても混んでて乗れなかったりしたら嫌なので覚悟して歩き続ける。

<午後9時45分> 池上
 歩いている間にどうやら動き出した都営浅草線。それに乗ってきた相当な人数に西馬込で抜かれる。馬込あたりで人が減ってきて歩きやすくなって来たと思ったら、西馬込で地下鉄から降りてきた人たちで再度道がごった返していた。足に痛みが出始める。下手にストレッチしたらつりそうになったのでやめた。足の付け根が痛くて足を上げることが辛い。

 日産プリンス池上店 ここは店舗を開放して、飲み物のサービス、
 トイレ、TV(放送)を見せてくれた。 
 スタッフがみな手分けして人を誘導。

 ちょうどトイレが限界に近くて助かった。
 本当に感謝。優しさに感動。
 一生忘れないです、日産の皆さん。

<午後10時半> 東芝科学館
 多摩川を渡り、神奈川に入った。多摩川にかかる橋を渡りながら、地震が来て橋がおちたらどうしよう、海から津波が来たらどうしようなどと不安になり、急ぐ。

 東京を出るのに4時間半もかかった。思ったよりも東京が長かった。川崎駅近くの前職場に寄ろうかとも考えたが、海側に相当進路変更しなければならないので、一気に横浜まで行こうと決意。あと約10km 途方もない距離にも思えた。

<午後11時半> 鶴見
 このあたりでも、見知らぬ老夫婦が紙コップで水を配っていた。
 またしても優しさに感動。深々お礼をしてお水をいただいた。


<午前0時20分> 新子安
 そういえば晩ご飯を食べていない。コンビニに寄るもパンとかおにぎりは無く、ポテトフライとチョコレートを買って食べながら歩く。このあたりでも、「トレイご自由にご使用ください」という手書きの看板優しさに何度も遭遇した。ここまで来たらゴールは見えてきた感じ。一気にいけそうだ。

<午前1時 横浜駅>
 もう、足が限界に近い。ふくらはぎやスネもいつ痙攣して動けなくなるか恐怖。野球とバスケをやってる頃ならなんてことないのに・・・それももう15年以上前のこと

妻から電話。「近所の事務所(妻バイト先)におじさん2人が凍えているから毛布を持ってきてくれとSOSがきた。どうしよう」と。
私「かわいそうだから家に入れてあげなさい、もうすぐ着くのでピックアップしていくよ」もう、足腰(このときは腰がものすごく痛かった)がぼろぼろだったが、こんな寒い夜に毛布もなしに夜を明かすのはかわいそうだと最後の力を振り絞ってラストスパート!!これもたくさんの優しさに触れたから出せた「力」であることに間違いない。

<午前1時半 自宅>
 近所の事務所のおじさんは1人がすでに熟睡したとのことで、結局帰宅後に毛布やカイロを届けた。帰宅した安堵感で少し元気が出た。何より、帰宅途中たくさんの優しい人たちに出会ったおかげで自分も困ってる人に何かしてあげなければという気持ちになっていた。こういう思いは連鎖するものである。 Pay Forward.

結局最短ルートで歩かなかったせいか、7時間半かかった。翌日、立てないことは無かったが、そうとう足腰が痛かった。ほんと情けない・・・ でも、帰宅したら家族と一緒にいることがとても幸せに感じた。そして、不謹慎かもしれないが、どこか達成感すら感じた。35kmくらい歩けるんだとわかったことも自分に自信と勇気が備わった。

TVで見る悲惨な状況に自分がこれから何をすべきか考える。もちろん募金もするが、今すぐなにもできないのがもどかしい。自分のできることをやるしかない。それはなんなのか?しばらくはそんなことを考えながら生活することになるであろう。

被害で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

以上