4, December, 2012
宝戒寺は1333年の北条氏滅亡後その霊を弔うため、後醍醐(ごだいご)天皇の命をうけた足利尊氏公によって創建されました。北条氏歴代執権屋敷跡であるこの地が選ばれています。
ご本尊様は子育て経読み延命地蔵様で鎌倉二十四地蔵尊の第一番とされています。また、鎌倉三十三観音第二番である仏母准胝観音(じゅんていかんのん)様、鎌倉・江ノ島七福神の毘沙門天(びしゃもんてん)様など多くの仏様がいらっしゃいます。
本堂の仏前には 高倉 健 とかかれたお供え物がありました。
4, December, 2012
宝戒寺は1333年の北条氏滅亡後その霊を弔うため、後醍醐(ごだいご)天皇の命をうけた足利尊氏公によって創建されました。北条氏歴代執権屋敷跡であるこの地が選ばれています。
ご本尊様は子育て経読み延命地蔵様で鎌倉二十四地蔵尊の第一番とされています。また、鎌倉三十三観音第二番である仏母准胝観音(じゅんていかんのん)様、鎌倉・江ノ島七福神の毘沙門天(びしゃもんてん)様など多くの仏様がいらっしゃいます。
本堂の仏前には 高倉 健 とかかれたお供え物がありました。
4、December, 2012
北鎌倉エリアにある「長寿寺」は、紅葉の時期とあじさいの時期の週末のみ公開される鎌倉でも珍しいお寺です。限定公開というだけあり、あまり多くの観光客に知られず、穴場のとても美しいお寺です。その美しさは ひとりでゆっくり時間を過ごすにもぴったりの空間です。
この日も休日ですが、さほど人は多くありません。ゆっくりと境内を散策することができました。
臨済宗建長寺派の長寿寺は、足利尊氏がその邸跡に創建し、尊氏亡き後、第四子で鎌倉公方となった足利基氏が父の菩提を弔うため七堂伽藍を備えた堂宇を建立したのだと伝えられています。基氏の創建という説もあるが、1336年(建武3年)の古文書には、長寿寺を諸山に列したという尊氏の記録があることから、基氏以前の建立と考えられている。長寿寺の南側が足利尊氏の屋敷があったところとされているが、尊氏の屋敷が山ノ内にあったかどうかは定かではありません。
長寿寺の観音堂背後のやぐらにある宝篋印塔は足利尊氏のもので、尊氏の遺髪が埋葬されたとされる場所です。足利尊氏は、1336年(建武3年)、「建武式目」を制定して室町幕府を開くと、1338年(延元3年)には北朝の光明天皇より征夷大将軍に任ぜられました。
足利尊氏は 1358年4月30日、京都二条万里小路第で死去しました(享年54歳)
鎌倉らしい山の岩肌を掘って作られた洞に立つ墓所。竹林があったり、大きな蜘蛛に遭遇したりと、それもまた鎌倉らしさかもしれません
。
4, December, 2012
臨済宗円覚寺派の大本山である円覚寺は、鎌倉時代後半の弘安5年(1282年)、執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により開山されました。
開基である時宗公は18歳で執権職につき、国家の鎮護、禅を弘めたいという願い、そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うため、円覚寺の建立を発願しました。
歴史ある円覚寺の境内は広く、緑が豊かです。いくつもの塔頭がならび、禅寺らしい雰囲気を伝えてくれます。特に紅葉の時期と冬の朝は私のお気に入りです。天気が良いと日の光を浴びて素晴らしく綺麗でなお寺です。
寺名の由来は、建立の際、大乗経典の「円覚経(えんがくきょう)」が出土したことからといわれます。また山号である「瑞鹿山(ずいろくさん)(めでたい鹿のおやま)」は、仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうとして白鹿が集まったという逸話からつけられたといわれます。
円覚寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受けるなどして、鎌倉時代末期には伽藍が整備されました。 室町時代から江戸時代にかけて、いくたびかの火災に遭い、衰微したこともありましたが、江戸時代後期(天明年間)に大用国師(だいゆうこくし)が僧堂・山門等の伽藍を復興され、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築かれました。
明治時代以降、今北洪川(いまきたこうせん)老師・釈宗演(しゃくそうえん)老師の師弟のもとに雲水や居士が参集し、多くの人材を輩出しました。 今日の静寂な伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えており、現在もさまざまな坐禅会が行われています。
秋桜が咲いていました
そして10月桜が12月ですが咲いていました
苔むしたお地蔵さま
ステンドグラスのように美しい竹林